ホーチミン市内観光ベトナム

ダナンからベトナム航空でホーチミンへ移動した。ホテルは落ち着いた雰囲気のコンチネンタル・サイゴン

市内観光は、豪華な旧大統領官邸(統一会堂)、リアルな戦争証跡博物館、歴史博物館、サイゴン大教会(聖母マリア教会)、福海寺(玉皇殿)、駅のような中央郵便局、中華街などを廻った。

その中で一番インパクトのあったのは「戦争証跡博物館」だった。ベトナム戦争時に実際に使用された戦車や大砲、爆弾などが展示され、目を覆いたくなるような凄まじい大型パネル、枯れ葉剤による被害の実態の写真、ホルマリン漬けの奇形胎児の展示は、ベトナム戦争の傷痕を生々しく証明していた。

ダナンからベトナム航空でホーチミンへ

「統一会堂」南ベトナム時代の「旧大統領官邸」 ベトナム戦争では北ベトナム軍が1975年4月30日にこの場に侵攻しサイゴンは陥落、そしてベトナム戦争は終結した

「戦争証跡博物館」ベトナム戦争の悲惨さを後世に伝えるための博物館

駅のような「中央郵便局」

「サイゴン大教会」(聖母マリア教会)フランス統治時代のベトナムの面影を今に残す

「福海寺」(玉皇殿)オバマ大統領がベトナムを訪問した際に立ち寄ったことでも有名

「福海寺」境内の池にメコン川に生息している「象耳魚」(エレファントイヤーフィッシュ)が泳いでいた。この魚をウロコごと丸ごと揚げたベトナム南部の郷土料理がある

「ホテル・コンチネンタル・サイゴン」フランス統治時代に造られた由緒あるホテルで、パリのホテル・コンチネンタルに因む

天井が高くてとても気に入った

テーブルにはウェルカムフルーツ

ベトナムの歴史を語るうえで、避けては通ることができないのがベトナム戦争。その現実をハノイの「ベトナム軍事歴史博物館」とホーチミンの「戦争証跡博物館」で目の当たりにした。目を覆いたくなる瞬間も多々あったが、直視しなければならない過去の現実がそこにはある。

Ho Chi Minh, S.Vietnam

ベトナム中部「ダナン」で宿泊したホテル

フエから列車で3時間かけてやって来たベトナム屈指のリゾート地ダナン。まずは妻がネットで予約していたホテルへ。部屋は14階のオーシャンビューでバルコニーにベンチがあった。

目の前に広がるダナンビーチは美しい! 70kmにも及ぶダナンの海岸線は「世界の魅惑のビーチベスト6」に選ばれていて、その美しさは世界のお墨付きだ。

「ダナンビーチ」が緩やかにカーブしている

海の家もあるようだ

砂浜は反対方向にも長く伸びている

部屋は奥行きがあり十分な広さ

扇形をしたバスタブ、もしかしたら単なるシャワー場(笑)

ホテルの20階のバーからの夜景、泳ぐのは早朝か夕方が暑くなくてよいと聞いていたが、こんな時間にも泳いでいる人がいる

沖には漁り火が見える

こんな素敵なビーチを前にしながら、僕たちはベトナムの世界遺産を歩いていた。

Danang, C.Vietnam

ハノイにある「ホアロー捕虜収容所」ベトナム

「ホアロー捕虜収容所」は、植民地時代にフランスによって造られた監獄で、フランス敗戦後も、ベトナム人民軍の捕虜収容所として使われた。現在はその一部が博物館として公開されており、独房、集団房、拷問の道具、処刑台や当時の様子を描いたレリーフなどが展示されている。フランス植民地時代には、フランスの支配に抵抗するベトナム人がここに捕らえられ投獄された。

レリーフにはフランス軍から拷問を受け、こぶしを挙げて抗議するベトナム人の姿が描かれている

捕虜となった人が足を鉄の板にはさまれ、まったく身動きできない状態にされていた。女性や子供も、足かせだけでなく、首にも固定版をはめられ、身動きが取れないように虐待されていた

集団房の扉、最も多い時は全体で2,000人以上が収容されていたという

「ギロチン台」フランス軍に抵抗するベトナム人が捕らえられ、このギロチンによって処刑された。鋭くとがった巨大な刃、その上に重たそうなおもり、首を固定する台、その下には、切り落とされた頭と血を受ける箱。想像するだけで気持ち悪くなった

刑が執行される前に、あるベトナム人はこう叫んだ「国を奪われた私たち。侵略者のあなた方。生死を賭けた戦いにおいては、最後に私たちが必ず勝利するだろう」

ベトナムはその後、欧米列強から自由と独立を勝ち取った

独房のようす。薄暗い中に捕虜となった人が両足を鉄の板にはさまれ、まったく身動きできない状態にされていた。日々粗食と水のみで、水腫を引き起こし、多い時にはひと月に40人以上の人が亡くなった

ホアンキエム湖畔で寛ぐハノイ市民。湖の中央に「亀の塔」

今のハノイ

フランスが造った悲しき遺物「ホアロー捕虜収容所」は、ベトナムの歴史が生んだ悲劇の産物。ベトナムといえば南北ベトナムと米軍参戦によるベトナム戦争が真っ先に思い浮かぶが、その前のフランス統治時代のベトナムの悲惨な歴史も忘れてはならない。

Hanoi, N.Vietnam

ベトナム鉄道でフエからダナンへ

フエからダナンへの移動手段は、バス、ツアーバス、乗合のワンボックスカー、タクシーなどがあるが、「列車の旅」を選んだ。

列車の座席は、木製で直角のハードシートとエアコン有のリクライニング・ソフトシートの2タイプがあり、リクライニング・ソフトシートを予約し乗車した。

フエからダナンまで約100km、3時間の列車の旅だった。

ベトナム鉄道「フエ駅」GA=駅

ホームに列車が入ってきた時、ホームと線路が同じ高さなので違和感を感じた

屋台みたいな車内販売

熱い汁物やカップ麺もあった

ダナン駅に到着、プラットホームがないとスーツケース持っての乗り降りがたいへん

バスでの移動の方が利便性は良いが、時間的、日数的に余裕があるときは「列車の旅」を楽しみたい。列車の旅は、その国の生活や文化に接することができる。

Vietnam Railways, from Hue to Danang

寝台列車でハノイからフエへ南下

北は首都ハノイから南はホーチミンまでの1,700kmを結ぶベトナム鉄道(1936年開通)は、戦争により幾度となく破壊されては復旧が繰り返され、ベトナム戦争終結の1年後の1976年に全線が修復された。
以後、「南北統一鉄道」と呼ばれるようになり、南北統一のシンボルとして現在まで親しまれている。

むかし南のホーチミンから中部のフエまで寝台列車に揺られたことがあるが、今回は北のハノイからフエまで寝台列車で南下したので、ハノイ~ホーチミン間全線を乗ったことになる。

ベトナム鉄道の北のターミナル駅「ハノイ駅」

個室寝台は快適だ

個室のドアは頑丈でカーテンは無く、天井部分にスーツケースを置けるだけの広い荷物置き場があった

ここが普通車両を改造した食堂車。狭くてテーブルが小さい。酔っぱらったベトナム人で込み合っていた

モーニング・カフェをストローで飲む(笑)

通路はとても狭い

トイレはキレイとは言えないが、洗面所は比較的キレイ

時どき車内販売のワゴンが通るが、飲み物とスナック菓子だけで期待していた駅弁はなかった

遠くにベトナムらしいお墓が見えた

フエ駅が近づくと車掌がドアを開け、黄色い旗を振りだした

14時間近くかけて、やっとフエに着いた!

ハノイからフエまで飛行機だと1時間15分だけど、寝台列車では14時間近くかかった。でも飛行機の移動では味わえないベトナムの旅情を味わうことができた。

Vietnam Railways, Hanoi to Hue

ハノイ市民は早朝から活動的ベトナム

ハノイで宿泊したホテルの前は細長い公園になっていた。その公園で早朝から年配たちの太極拳や若い人たちの大音量でのエアロビクス、動きが入った瞑想、太鼓の練習、真剣勝負のバドミントン、ジョギング、ウオーキン、ウエイトトレーニングなど思い思いのことをやっていた。

中高年の人たちは太極拳

若い人たちは大音量でエアロビクス

胡坐をかき瞑想したり上半身を動かしたり

太鼓の練習をする人たち

真剣勝負でバドミントンをする人たち

ハノイ市民は早朝からなんとパワフルなんだろう。ひと汗かいたらお茶を飲み、朝食を食べ、そして一日の仕事が始まるのだろう。そのためか飲食店も朝早くからやっている。

Hanoi, N.Vietnam

ハノイにある国宝を探訪ベトナム

「ベトナム軍事歴史博物館」を訪れた。そもそもベトナム戦争は、第二次世界大戦以降に顕在した「資本主義・自由主義陣営」と「共産主義・社会主義陣営」の対立、つまりアメリカとソビエト連邦の間に起きていた冷戦が背景にある代理戦争だった。表面的には「北ベトナム」対「南ベトナム・アメリカ軍」の戦いだったが、本質的には「共産主義」対「資本主義」の戦争だったのである。

1974年4月30日のサイゴン陥落の際、大統領官邸に突入した旧ソ連製の「T54B型843号戦車」が誇らしげ

ベトナム戦争を語る上で重要な旧ソ連製の「ミグ21型4324号戦闘機」

軍事歴史博物館の敷地内には、当時使用されていた戦車や戦闘機が展示されている

北ベトナム軍が撃ち落としたアメリカ軍戦闘機の残骸。その奥に植民地時代に見張り台として建てられた「フラッグタワー国旗塔」

総大理石造りの「ホーチミン廟」内部にはベトナムの民族的英雄ホーチミンの遺体がガラスケースに入れられ安置されているのをまじかで見ることができた。遺体は4人の銃剣を持った衛兵によって守られていた

ホーチミンが暮らしていた住居、デザインがヨーロピアン風でオシャレ

ランチ:エビの揚げ春巻き

米麺を葉っぱでくるんだベトナム料理

ベトナム料理の定番フォー

むかし南北軍事境界線のベンハイ川周辺を訪れたとき、雨ざらしになった戦車や大砲を見ながらガイドの説明を聞いたのを思い出した。

今の日本も領土を脅かすような問題が発生しているが、今後大ごとにならなければいいけど…

Nanoi N.Vietnam

プノンペンで昆虫料理を食すカンボジア

プノンペン市内の屋台ではなくちゃんとしたレストランで、ハチの巣をバナナの葉に包み蒸し焼きにした料理を食べた。クメール料理に昆虫を食材にした料理があった。

「ハチの巣の蒸し焼き」左半分は幼虫の口が見えるので表向き、右半分は裏向きにして蒸し焼きにされていた。ずっしりと重たい

「クメール風ヤムウンセン」米麺のスパイシー・サラダ、けっこう辛かった

「クメール風さつま揚げ」酸っぱ辛い汁につけて食べる

この料理は何だったか思い出せない

タイのレストランでも昆虫料理を出す店は多くはないが、プノンペンでたまたま入ったレストランに昆虫料理があった。タイの市場や屋台でハチの巣をバナナの葉に包み焼いたものは時どき見かける。

クメール料理って思ってたより唐辛子を多用するな… 辛いから美味しい。

プノンペンの居酒屋にてカンボジア

プノンペンのビールをメインにしている居酒屋に入り、旅の疲れを癒した。

その前にマッサージに行った時のことである。施術師たちが、アランヤプラテートはカンボジアという内容のことを話していた。確かにポルポトによる内乱時代にカンボジアの人々がタイ領のアランヤプラテートに大勢避難していたのは事実である。僕が横から「ポイペットはカンボジアだけど、アランヤプラテートはタイだよ」と言ったけど、まったく聞く耳持たなかった。タイとカンボジアの国境が不安な地域はあるが、アランヤプラテートはタイ領なのでバンコクから列車で行ったことがあるので自信もって言ったんだけど…

この焼き魚はとても美味しかった

空芯菜もどき炒めも歯ごたえがあり美味しかった

僕たちは Angkorビールを飲んだ

オープン居酒屋って感じ。女性スタッフが頻りにビールを勧める

僕はどこに行っても猫に好かれる(笑)

バナナの葉に包まれたデザート

プノンペン散策は心が疲れる。この人は、この人のお母さんは、ポルポト内乱時代はどうしていたんだろう、と考えると辛くなる。ポルポト派たちは、将来仇討ちされないようにと乳飲み子まで母親から奪い取り、木(キリング・ツリー)に叩きつけ、母親の目の前で殺戮したということを知ったからである。

プノンペン郊外にある「キリングフィールド」カンボジア

ポル・ポト政権時代に、罪なき人々が大量に処刑され、遺体が埋められた場所を「キリングフィールド」と呼ぶ。後に掘り起こされたときにできた大きな穴には今植物が覆いかぶさり、綺麗な花を咲かせ、蝶が乱舞していた。

慰霊塔内部には、おびただしい遺骨が収容されている。ここは17段に分かれているが、これはポル・ポト派がプノンペンに侵攻し、大量虐殺が始まった1975年4月17日の「17」を表している。

キリングフィールドの入口にそびえたつ「慰霊塔」

夥しい遺骨が収容されている

ポル・ポト派によって処刑された罪なき人々の悲痛な叫びが聞こえてくる

今の「キリングフィールド」・・

今の「キリングフィールド」・・

あまりにも生々しい「トゥール・スレン虐殺博物館」元は高校の校舎で、ポル・ポト派が、捕らえられた罪なき人々に虚偽の自白書を書かせるために激しく拷問した場所で、そこがそのまま博物館として、ポル・ポト派の残虐行為を今に伝えている

ポル・ポトの思想は、原始時代のような農耕・狩猟生活を理想とし、皆んなで野山で平等に生きることを理想とする思想で、「民主カンプチア」と呼ばれる非常に偏ったものだった。

その思想は、学校教育をはじめ、医師の持つ医療技術や技工士が持つ専門技術、弁護士が持つ法律知識などを排除すべきという考え方で、彼は農民こそが革命を起こすべきだと考えていたために、知識人層を一切排除し新たな理想の国を作ることを思い描いていた。そのために大量虐殺が手段として選ばれ、その結果300万人もの罪なき人々が殺害された。

「キリングフィールド」も「トゥール・スレン虐殺博物館」もヘッドホンをして日本語の音声ガイドの説明に従い見学したが、どこの国の旅行者も同様重たく、辛そうな面持ちだった。

Killing Fields, Phnom Penh, Cambodia