チェンマイの旧市街とは、チェンマイ市の中心部において四方を「お掘」と「城壁」に囲まれた区域のことをいう。一辺の長さが約1.6kmである。
タイ北部に広がっていたランナー王朝は、13世紀末にメンラーイによって築かれ、後に都を現在のチェンマイにおいた。そして敵国からの侵略を防ぐため、「お堀」と「城壁」で都を囲んだと伝えられている。
囲まれた都の城壁に5つの城門と四隅に堡塁(砦)を築いた。城壁は経年とともに劣化しほとんどが取り壊されたが、5つの城門と4つの堡塁は修復されながらも現在まで残っている。
資料によると、メンラーイは1294年にピン側上流のウィアンクムカーム(現在のチェンマイ南部)に遷都したが、その後1296年に現チェンマイに遷都し、一般にこれがランナー王朝の成立と考えられている。
チェンマイ旧市街の5城門と4堡塁の位置関係

ランナーは、タイ北部のチェンマイ、チェンライ、ランプーン、ランパーン、ナーン、パヤオ、プレー、メーホンソーンなどの領域が含まれる

ピン川は、タイの母なる川チャオプラヤー川の源流であり、チェンマイ北部の山岳地帯(チェンダオ)から始まり、チェンマイを流れ、ナーン川と合流し、バンコクを経て海へと流れる

A:フアリン堡塁 แจ่งหัวลิน 旧市街の北西角

チャンプアック門 ประตูช้างเผือก
旧市街の北側中央に築かれた城門。現在修復工事中。むかし白い象が新しい都チェンマイを造るのにどこがいいかと探している途中この近くで息絶えたので、白い象の門、タイ語でチャンプアック門と名付けられたという

B:シープーミ堡塁 แจ่งศรีภูมิ 旧市街の北東角

北側から見ると、城壁が地層のように褶曲している

ターペー門 ประตูท่าแพ
旧市街の東側中央に築かれた城門。タイ語で船着き場のことを「ター」、筏のことを「ペー」という。この城門を東へ進むとピン川に出る。そこには昔アユタヤなどと交易するときの重要な船着き場があったという

C:カタム堡塁 แจ่งก๊ะต๊ำ 旧市街の南東角

チェンマイ門 ประตูเชียงใหม่
旧市街の南側に築かれた城門。アユタヤの王様が歩いて入った城門という伝説があり、象や牛もこの城門から入ったという

センプン門 ประตูแสนปุง
旧市街の南側に築かれた城門。城内で王家の人が亡くなると、この城門を出て、城門近くの火葬場で火葬し、ワット・スワンドーク寺に遺骨を安置した。ランナー人も城内で亡くなったら必ずこの城門を出て、ピン川沿いに埋葬されたという

センプン門 ประตูแสนปุง の表示板、ランナー文字も併記されている

グーフーアン堡塁 แจ่งกู่เฮือง 旧市街の南西角
ランナー王朝2代目セーンプー王の財宝を奪って捕まったフーアンという人物の骨が埋められているという。タイ語で「グー」は墓、フーアンの墓という意味に由来している


スワンドーク門 ประตูสวนดอก
旧市街の西側に築かれた城門。城内のランナー人はこの城門を出て、王家の墓のあるワット・スワンドーク寺へお参りに行っていたという

僕のタイ語の先生は、チェンマイ大学で生化学分野を研究したバリバリのリケジョであるが、タイの歴史に関してもとても詳しい。授業中にタイの歴史について質問すると絵を交えながら丁寧に教えてくれる。ただ板書はタイ文字で、それをノートに書き写すだけでも勉強になっている。
先日、チェンマイの城門と堡塁の解説をしてくれたので、デジカメを持ってお堀の周りを歩いて一周した(2022/12/12)。ここにアップした写真はその時に撮った写真である。
歴史の勉強は元々好きではなかったが、タイが好き、チェンマイが好き、が高じてタイの歴史に興味を持つようになった。苦手なパソコン、試行錯誤しながらエクセルでチェンマイのお堀の図まで描いた。笑われるかも知れないが、僕にとっては画期的なことだ(笑)
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